先日、社会のプリントで出てきたんですが、田中正造って、何をした人ですか?
田中正造、よくテストにも出ますね。
足尾銅山鉱毒事件とセットで覚える必要があるので、説明します。

今回は、中学受験の勉強でも重要な田中正造について

  • 何をした人なのか?
  • 足尾銅山鉱毒事件とは

などを、分かりやすく解説します。

田中正造は何をした人?

田中正造は、幕末から明治時代にかけての村名主であり、政治家です。

名前:田中 正造(たなか しょうぞう)
出身地:下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市)
生誕:1841年12月15日
死没:1913年9月4日
享年:72歳(胃ガン)
時代:江戸時代~大正時代

日本で初めて起こった公害事件といわれる、足尾鉱毒事件を解決するために、明治天皇(当時の天皇)に直訴したりと、亡くなるまで事件解決に人生をささげました。
(後で詳しく説明します。)

日本初の公害事件といわれる、足尾銅山鉱毒事件を解決するために、一生をささげた人物とは?

  • 田中正造
  • 田中吉政
  • 田中角栄

正解!

不正解...

正解は田中正造です。

田中正造は、幕末から明治時代にかけての村名主・政治家であり、足尾銅山鉱毒事件を解決するために、一生をささげました。

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足尾銅山鉱毒事件って、どのようなものだったんですか?
足尾銅山鉱毒事件について、解説します。

足尾銅山鉱毒事件とは?

19世紀の末(終わり)に、栃木県にある足尾銅山が出した鉱毒によって、

  • 森林が枯れる(かれる)
  • 森林が枯れて、洪水が起こりやすくなった
  • 渡良瀬川流域に鉱毒が広がった
  • 渡良瀬川流域の作物が枯れる
  • 川に入れば足が腫れる
  • 井戸水を飲めば具合が悪くなる
  • 乳幼児の死亡率が増える

といったことが起こりました。

これが、足尾銅山鉱毒事件です。

足尾銅山鉱毒事件は、何川流域で起きましたか?

  • 渡良瀬川
  • 那珂川
  • 鬼怒川

正解!

不正解...

正解は渡良瀬川です。

渡良瀬川流域に鉱毒が広がりました。

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鉱毒(こうどく)とは?
鉱毒は、おもににヒ素・硫酸(りゅうさん)・水銀などの化学物質で構成されたもので、周りのの土壌(どじょう)や地表の水だけでなく地下水にまで有害な影響を及ぼすとされています。

 

ちなみに、足尾銅山とは・・・

足尾銅山とは?

  • 場所:栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)にあった銅山
  • いつから:慶長(けいちょう)15年:1610年に幕府より銅山と認められた
  • いつ閉山:昭和48年・1973年まで

の約360年間(一時休山しつつ)、銅の採掘が営まれた日本でただ一つの銅山です。

足尾銅山は、

  • 明治期には亜砒酸も産出
  • 精錬の副産物として硫酸も生産
  • 江戸時代にはピーク時で年間1,200トンもの銅を産出

日本の鉱都とよばれていました。

日本初の公害事件を何というでしょう?

  • 四日市ぜんそく
  • 水俣病
  • 足尾銅山鉱毒事件

正解!

不正解...

正解は足尾銅山鉱毒事件です。

栃木県足尾銅山で起こった、足尾銅山鉱毒事件は、日本で初めて起こった公害事件です。

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現在は、足尾銅山跡地として、観光できるようになっています。

どうして、そんな大変なことになっているのに、長い間、解決されなかったんですか?
ちょっと難しい話なので、小学生でここまで覚える必要はありませんが、どうしてこうも長くつづいたのか気になる場合は、ごらんください。
足尾銅山鉱毒事件の流れ
  1. 明治24(1891)年12月25日:正造質問演説にて、足尾銅山鉱毒問題として、初めて国会でとりあげられた(1週間前の同年12月18日「足尾銅山鉱毒加害のに付質問書」を提出)
  2. 農民たちの必死の訴えを、国は一切無視(この時の農商務大臣は陸奥宗光)
  3. 明治29年までの段階:足尾銅山主である古河市兵衛の示談契約工作(じだんけいやくこうさく・争いを止める合意をしようと働きかけ)がなされ、栃木・群馬鉱毒被害関係43か町村が示談契約を結んだ
  4. 明治29年7月及び9月(特に9月8日):大雨や大洪水は、今までにないほどひどく、渡良瀬川沿岸一帯に鉱毒を運び、その被害が拡大
  5. 明治29(1896)年10月5日:渡良瀬村(現館林市)雲龍寺に「群馬栃木両県鉱毒事務所」を設立、同じ考えを持つ人たちが集まり、精神的契約書「雲龍寺の連判状」を結び組織作りが活発化
  6. 明治33(1900)年2月13日:第4次請願陳情運動において川俣事件の発生
  7. 明治34年12月10日:第16議会開院式から帰る途中の天皇に、鉱毒事件の解決を訴えるため田中正造が直訴
  8. 明治33(1900)年11月28日:田中正造は川俣事件第15回公判で、検事論告に腹を立てあくびをし、官吏侮辱罪に問われた
  9. 明治34(1901)年12月10日の天皇直訴事件後の明治35(1902)年6月16日:欠伸事件の有罪判決が下り、田中正造は巣鴨監獄(すがもかんごく:ろうやのこと)に41日間服役
  10. 明治34年12月正造の直訴以後、鉱毒問題は人々の関心を引くようになる(政府の取り組みに対する批判が強まる)
  11. 明治35年(1902):政府は原因は洪水にあると判断し、洪水防止策として渡良瀬川の新川開削
  12. 1903年:近隣の松木村などが、煙害で人が住めなくなり廃村
  13. 1904年:鉱毒問題を洪水対策のための治水問題にすりかえ、さらに日露戦争の需要をたてに足尾銅山の生産を拡大
  14. 明治41年6月~8月:渡良瀬川思川の実地調査
  15. 大正2(1913)年8月2日:河川調査から谷中村への帰り道、田中正造は病に倒れ、9月4日死去(亡くなった)
  16. 昭和33年:実際に堆積した有害物が流出したために、群馬県を中心に大規模な鉱毒被害が発生
  17. 1972年:古河鉱業への加害者責任が認められた
  18. 1973年:足尾銅山閉山
  19. 精錬所は1980年代まで稼働し続けた
  20. 2011年:東日本大震災の影響で、渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出された
川俣事件とは?
足尾銅山の鉱毒問題を解決するため、2千5百人以上の被害民たちが決死の覚悟で、第4回目の東京大挙押出し(請願)を決行。
しかし、川俣地内の上宿橋(現邑楽用水架橋)で、待ちうけた3百人以上のの警官と憲兵が暴力事件となり、多くの被害者を出した。
そして、被害民15名がその場でとらえられ、翌日以降の捜査(そうさ)で100人以上が逮捕(たいほ)され、そのうち51名が起訴(きそ)された。
これを、川俣事件という。

 

田中正造が国会で訴えてから80年以上が経過してから、ようやく古河鉱業への加害者責任が認められたというわけです。
あんまりだ・・・。

まとめ

ポイントをまとめます。

  • 田中正造は、幕末から明治時代にかけての村名主であり政治家で、明治天皇に直訴したり、足尾銅山鉱毒事件のために一生をささげた人
  • 足尾銅山鉱毒事件は、栃木県にある足尾銅山が出した鉱毒によって起こった、日本初の公害事件
  • 田中正造が国会で訴えてから80年以上が経過してから、ようやく古河鉱業への加害者責任が認められた

 

今じゃ考えられない事件だと思うかもしれませんが、明治に発生した鉱害事件が、大正・昭和・平成、そして令和となった今もまだ影響が残っているというわけです。

その後、四大公害事件など、日本において戦後様々な公害問題が起こりますが、その最初となった公害事件がこの足尾銅山鉱毒事件でした。